80歳 現役編集者の “徒然なる我儘に”

じゃこめてい出版の最年長編集者が手掛けた書籍の紹介と思い出の日々を綴る。人生の編集日記。

ついに決行! シモキタ散歩4 リハビリ療法士さんはお煎餅仲間だった⁉

「シモキタ散歩」後日談になりますが、このお煎餅を下北沢に行ってきました、と療法士さんに報告を兼ねてさしあげたところ、

「わたし大好きなんです塩煎餅!」と目を輝かせて喜んでもらえました。

そして、「すごいですね、よく歩けましたね、本当におめでとうございます」とわがことのように喜んでもらえ、その言葉のおかげでわたしもしっかり達成感を味わうことができたように思えました。

 

訪問リハビリの療法士さんは「そのお煎餅屋さんでわたしもお煎餅を買いました」とのこと。 これにはほんとうにびっくりしました。

わずか一時間に満たない散歩を、「ほんとに、よかった!よかった!」と何度も何度も繰り返し言われ、それもこれも心のこもった今までの適切となリハビリ指導の賜物と感謝の念を新たにしました。

 

去年の夏だったか、秋だったか、前任の訪問リハビリの療法士さんから、

 「この間シモキタにいってきました」 と言われ、びっくりしたことがあります。 

私が、子供の頃よく遊んだ下北沢をなにかにつけて自分の足で歩けたらなあと言っていたので、きっとエールを送るつもりで代わりに行って下さったのだと勝手に解釈、それを励みに自分もいつか必ず実現させようと思っていたのがこの「下北沢散歩」です。

これでひとまずワンステップを踏破!? 次の一歩も踏み出せそうです。 

 

ということでこの場を借り、日頃リハビリでお世話になっている皆様にはリハビリの大切さとともにシモキタ散歩を無事終えたことをご報告し、お礼の言葉とかえさせていただきます。

難行苦行」はまだ続きそうですが、「大丈夫ですよ」ということもなげなるあの声かけを思い出しながら頑張ります。

 

またこのような病い奮戦記ブログにながながお付き合いくださった皆様にも感謝。

ありがとうございました。

 

よるべなき身もしみじみとこころよき 花に埋もるる幻の街

(ついに決行!シモキタ散歩 終わり)

ついに決行!シモキタ散歩3 お煎餅屋さんで「小丸」に出会う

シモキタに続く細い道をたどりなんとか繁華な通りに出ることができたとたん、緊張がほぐれたのか急に足取りと気持ちが重く感じられ、とりあえず美味しそうなケーキのメニューが目にはいったカフェで一休みすることに。

心配性のわたし、こんな調子で大丈夫かと先が思いやられました。

でもしばらく休むと元気が じわっと戻ってきて、シモキタ散歩は続けることができそうな気持ちになりホッとしました。

 

すると現金なものであちこちに行ってみたくなってきて、いろいろ思い出してきました。

一休みしたカフェのあたりにはたしか、江戸時代の儒学者荻生徂徠の子孫がやっていたという古本屋があったし、古レコード屋さんでは裏面のないSP版のカルーソという有名なテノール歌手の「女心の歌」を買ってよく聴いたことも、「とちくら」という名前の区長がやっていた銭湯も、そういえば戦後間もなくだったので駅の一角に闇市のようなお店もあった…などなど、「シモキタ思い出通り」はつきません。記憶をたどり散歩を再開。

もちろんどれもありませんでしたけれど。

 

もしかしたら昔遊んだ友達と出くわすのでは、とかすかな期待もあって駅周辺を歩いていると、なにか懐かしい感じのするお煎餅屋さんがありました。

お店のつくりが古いので、いつごろからあるお店ですかと尋ねたところ

かなりお歳のお店の人の話では70年前に出来たお店とのこと。

お店の裏には今もお煎餅をつくる工場もあるそうで、本格的なお煎餅屋さんだということがわかります。

ということは、わたしが小学生のころなので、当然このお店も知っているはず? なのにどうしても思い出せません。

いろいろ聞いてみたいと思ったのですが、急に子供に戻ってしまったのかなんとなく恥ずかしくなって、根掘り葉掘り聞くのはやめ、ガラスのケースに入ったいろいろなお煎餅を買うことにしました。

 

小さな丸い形をしたその名も「小丸」という塩煎餅には見覚えがあり、おやつによく食べていた記憶がよみがえってきました。

そして思わず「これください」と買い求めていました。

定番品川巻きもいっしょに。

 

家に帰って食べてみると、なんともなつかしいしっかりとした醤油味。

昭和レトロということばには違和感がありますが、強いて言えばそんな味になるのかな?

 

ここまで歩いてきて手持ちの万歩計を見ると、なんと8039歩!

散歩を再開してよかった。

この小丸煎餅はリハビリ散歩8千歩突破記念品ということで、大切にいただくことにします。

 

そして、お煎餅屋さんを出て、来た道をゆっりゆっくりもどることに。

井の頭通りに面した駐車場にたどりついたころは、もう陽が傾きかけていました。 

同時にわたしの背中も大分傾きかけていることを指摘され、思わず背筋をのばしましたが。

 

夕食をとったファミリーレストランでは、快い眠気につつまれ、みんなの話し声を子守唄にしてウトウト。

「よくずっーと、と歩けたね! 」

同行してくれたみんなから、あかちゃんが初めて立って歩いたみたいに褒められながら帰途につきました。

本当にありがとう、一緒に歩いてくれたみんな。

 

真底疲れましたけど、充足感に満ちた一日でした。

  

ついに決行!シモキタ散歩2 「そして、ドンリュウさんも」

「シモキタ散歩」はスタート地点から、ちょっとがっかりが続いてしまいました。

でも気をとりなおし、手作りの地図を片手に(持っていたのは私ではありませんが)足元もおぼつかぬまま、 おそるおそる井の頭通りを渡って,下北沢に続く狭い道に入り、一路目的地を目指しました。

 

この道はアップダウンが結構ある道で、のっけから工事のため急ごしらえの石段があり、しかも下り!おおいにあせりましたがなんとかクリア。

子供のころは坂道も楽しくてとぶように歩いたものですが。

 

下北沢は近所の子供たちや学校の友だちとでよく遊びに行ったところなので、いろんな思い出がぎっしりと詰まっていて、記憶を辿るだけで胸に熱いものがこみあげてきます。

 

特に下北沢の駅舎は、仕事帰りの父を兄とふたりで夕方よく迎えにいった、思い出深い駅です。

暮れなずむ空からガタンゴトンと舞い降りてくるような電車の明るい窓に、小学生だった兄と二人身を乗り出して父の姿を探しました。

路地を走り抜けていくとき、行く手にオリオン座の三星が木の間に見え隠れし、見つけると父と直ぐ会えるような気がしてうれしかった。

母のいない家でした。父と兄とわたしの三人肩を寄せ合うように暮らしていたあのころ。思い出すと今もせつなくなります。

 

その駅も今は小田急線の線路が地下に潜つたりと、私にとっては思い出のよすがとなるものがなくなり、遠くから知らない駅と街をながめ見ている感じになっていくのが残念ですが。

 

テレビがまだ一般家庭に普及していなかった時代、場所中はテレビ観戦をするために、相撲好きの父がテレビのあるお寿司屋さんによく連れて行ってくれました。

そのお寿司屋さんも見当たらず、同級生の家がやっていた理髪店や靴屋さん、お肉屋さんなどまだあればと期待しながら歩いたのですが、あるのは若者向けの古着屋さんや飲食店ばかり。

残念ながら見覚えのあるお店はひとつもありませんでした。

それどころかお寺も無くなっていてびっくり。

 

昔、中学の同期生が住んでいた家の前にあったお寺で、私たちは「ドンリュウさん」と呼んでいたのですが、それは間違いで、本当は曹洞宗の真龍寺という名のお寺だということを最近知りました。

その寺にまつられていた「道了尊」を「ドンリュウさん」と聞き間違えていたみたいなのです。

私だけがそう呼んでいたのか、それもどうか今となっては確かめようもないのですが。

しかも勝手に「呑竜さん」という漢字まで当てて覚えていたのはどういうことなのでしょう。なんと不謹慎な。スミマセン。

今では廃寺となっていて、跡地には寺とゆかりがあるのかないのか、無表情なビルがのっそり建っていました。

 

シモキタといえば今では本多劇場ですが、当時は映画館が、グリーン座、ヲデオン座、そして名前を忘れたもう一館、と三館もあって、学校からもよく観に行ったものです。それも全て無くなっていました。

 

ただ見知らぬお店が連なった街になっていても不思議に他人行儀のよそよそしさはなく、若者に混じって足元もおぼつかなく歩く年老いたわたしにも、終始あたたかな安心感をあたえてくれる街でした。

何故か「古着」のような温かさにほっとさせられる街であることには、変わりありませんでした。

(ついに決行!シモキタ散歩 3 に続く)

ついに決行! シモキタ散歩1 「スイドードーロって?」

 夕暮れて父の降り立つ駅舎までひた走りゆくオリオンの道

 

桜も満開となった三月も終わるころ、念願のシモキタ・リハリビ散歩に行ってきました!

「シモキタ」といえば、今は知らない人はいないくらい、あまりにも有名な若者の街になってしまいましたが、私にとって「シモキタ」は、あくまで「下北沢」で、子供の頃よく遊んだ思い出の街です。

 

 パーキンソンになってから、リハビリの目標の一つとして「下北沢散歩」をコトあるごとに宣言していたのですが、体調を理由に一向に腰をあげない私に業を煮やし、子供たちがこの日に決行するから」と一方的に宣言、重い腰を上げざるをえないこととなってしまいました。

 

ということでいつ転んでも大丈夫なように、みんなにしっかりガードされながら下北沢散歩を決行、孫も入れて参加メンバーは総勢六人でした。

 

スタート地点は子供の頃住んでいた井の頭通りに面した家のあたりで、ゴールは下北沢駅

健康な成人なら徒歩15分くらいで着けるはずなのですが・・・。

 正直、いまのわたしにとっては、なかなかの難行苦行の道のりでした。

 

この「井の頭通り」ですが、わたしの子供の頃は「スイドードーロ」(水道道路)と呼んでいたので、常々不思議に思っていました。

で、ネット検索したところ、今もその名の通り水道が地下を通っているのだそうです。

多摩湖の水を東京に運ぶために地下に作った水道の上を道路として利用し、都心まで走らせたのが「水道道路」つまり「スイドードーロ」でした。

その道路の途中にある武蔵野市関川と渋谷駅付近を結ぶ道路を「井の頭通り」と名づけたんだそうです。

当時荻窪に住んでいた元首相の近衛文麿が、車で国会に出かける道の名前が「水道道路」ではあまりにもドロくさい!といったかどうかは知りませんが、自ら大正13年「井の頭街道」と名づけたのだそうです。

さらに戦後第一回東京オリンピック(1964年)の年正式名称「井の頭通り」となったとのこと。

そんなこんなで、「スイドードーロ」は「井の頭通り」と呼ばれるようになったといいます。(ややこしいので詳しくはネットでご確認ください) 

その水道は地下にあったので見えず、見えないまま「スイドードーロ」

という名の道路が、子供の頭の中にずーっとひかれ続けていたのですね。

 

その井の頭通りに面した住宅街にある駐車場に車をとめて、一路下北沢に向うことになるのですが、その前に、家のあった場所に行ってみました。

残念ながらあたりはほぼ集合住宅になっていて、思い出をたどれるものはなにも残っていない!

そればかりか小学校はなんと廃校になっていました!

中学校はさすがに残っていましたが、もちろん春休みで門は固く閉ざされたまま。中は覗くこともできません。

 

ただ昔「山本家具店」という名の古道具を扱っていたお店が残っているということを聞いていたので、これもネットで調べてみたところ、昭和20年創業、三代にわたってアンティークものを扱っているというお店があることを知りました。

多分あの古道具屋さんに関係のあるお店に違いない。そう思いました。

 そこでいろいろ聞くことができるかもと胸がおどりました。

ネットで見る限りお店も当時の何倍も大きくなっていて、ぜひ行って見ようということになっていたのですが、なんとその日は定休日!だったのです!! 

そして閉じられたお店を横目に、下北沢に向かうことに。

 

 (シモキタ散歩 2 に続く)

 

秋晴れの空の下

霊峰は真白き冠を戴て高圧鉄塔により沿ひ浮ぶ

 

目のさめるような秋晴れの空の下、雪をかぶった富士山がくっきりと見えた日があり、読んだ歌です。

「富士山が見えるよ」とおもわずいるはずのない夫によびかけて、

「そうか、もういないんだ」とつぶやく。そんな日々が続いています。

 

 

「こんなに劇的に回復する患者をみるのは2年ぶりだ」

と先日の診察の際、先生からいわれました。

先生が診ておられるパーキンソンの患者さんの中に90歳を越える方いらして、一人で旅行に出かけられるほど今もお元気とのこと。 

人生100年時代、元気で暮らせることを目指し頑張らなきゃ」

 初めて診てもらった時の先生のことばを思い出し、そして今回の診断、うれしさがこみ上げ、ちいさくガッツポーズをしているワタシです。

 

初診の際のわたしの「もうダメだ感」はいまでは語り草になっていますが、実はその時のダメさ加減をあまりよく覚えていません。

「うっそー、ホントに覚えていないの?入院の心配までしたのに?」」と付き添いの子供たちも口を揃えていいます。

先生もまた、「あのときは酷かったね」とさりげなくひとこと。

そして冒頭の劇的によくなったという言葉に繋がるのですが。

本人は劇的によくなっているということが、なかなか実感ができないというやっかいな病気でもあります。

 

また、いまさらながらですが、念押しのように

パーキンソン病であると認定しました」とも言われました。

病気の決め手となる検査が、わたしにアルコールアレルギーがあるためできなかったので、経過を見ながら病名を決めると言われていたのです。

其の時の、残念を通り越してお怒りの表情になっておられた先生の顔が、忘れられません。

そして、今回経過観察の結果、パーキンソン病に間違いがないと断定されたようです。

 

それにしてもこの疾患は運動能力がそう簡単には元通りにはならない。

少し長く椅子に座って立ち上がり歩こうとするときのふらつき感はなくならならず、

散歩も地面が家の廊下と違って様々変化するので、外出は今だに心許ない。 

リハビリしたあとの疲労感も結構あったり、回復経過を自分なりに振り返ってみると

この病気、とても一筋縄ではいかないなというのが、正直な感想です。

 

このブログを再開して半年ぐらいになりますが、少しずつよくなるにつれてパソコンに向かうことが増え、前屈みの姿勢のまま小一時間経っていることも多くなりました。

其の結果、骨盤に負担がかかりふらつきの原因にもなっているのでは?と、バソコンの画面やキーボードの位置や高さが問題といわれました。

今のままでは、ますます背が曲がってしまいマズイとのこと。

わたしはノートパソコンを使っているので、画面とキーボードが一体化していて高さ調節がむずかしく厄介です。

菓子箱を見繕って高くしているのですが心許ない。

わたしは使っていませんが「スマホも姿勢が問題」と言われました。

読書も寝ながら読むなどもってのほかで、 

医師曰く「読書は背筋を伸ばし、書架を使って読むベシ。喉の筋肉を鍛えるには、詩吟を習うべシ」だそうです。

なるほど、背筋がシャンとして時代劇みたいでおもしろいかも。

 

今は15分から30分おきにパソコンを中断し、立ち上がって足踏みしたり、歩いたり、体操したり、セワシナイことです。

日常生活の「難行苦行」はまだまだ続きます。

 

下北沢散歩もいつできるやらーー。でもあきらめないでリハビリがんばります。 

リハビリは難行苦行 パート3 秋日和リハビリ散歩

秋日和金木犀の匂い満ついつか来た道夫(つま)と連れ立ち  

 

暦の上では、そろそろ秋も深まりという今日この頃のはずでしたが、台風(と真夏日)が毎週のようにやってきて、秋晴れの行楽シーズンが、毎日天気予報と空を睨めっこという方が、多かったのではと思います。

久しぶりに今日は、申し分のない秋晴れの空を拝めました。

目下パーキンソンで自宅療養中で、モサモサと自主リハビリをしたりしなかったり。

相変わらずお出かけ嫌いの私ですが。

でも、親孝行(不幸?)の息子がやってきて、寝起きの私の手をとり、有無をいわさず散歩に連れ出してくれました。そして今散歩から戻り、パソコンに向かっているという訳です。

 

以下は昨日の話になります。

現在のわたしの介護状況は、週一回クリニックのリハビリ施設に通い、四十分ほどリハビリを受け、月1,2回そのクリニックで医師の診察を受けています。

それにプラス、介護支援の一環として、市の包括支援センターで紹介してくれた訪問リハビリも、週に一回受けています。 

要するに、週2回自宅とクリニックの二箇所でリハビリを受ける、という状態が2ヶ月ぐらい続いているわけです。

薬が効いているのはもちろんですが、この週2のリハビリもやはり効果はすごいと、実感するこの頃。

 

  今日は行楽にふさわしい秋日和、しかも訪問リハビリの日です。

室内で通常行ういくつかのリハビリを終えると、療法士さんから

「それでは散歩に行ってみましょうか」 

  これもまた「こともなげなる」散歩のお誘い。

ということで、逡巡は許されず!? 行ってきました。1階にある集合ポストに(居住は9階です)往復20分ぐらいかけて!

マンションを半周したぐらいの距離ですが、これくらいでも結構疲れ、難行苦行寸前になります。体調は元どおりにとはいかず、まだまだということなのでしょう。

  

4ヶ月前に転んだ石畳を歩く時は足がすくみました。

マンションの入り口にある大きなガラスの扉に映る、孫の年齢に近い、若々しい療法士さんとならんで歩く白髪の老婆で、かつ子供みたいに小さいわが姿を見て、

OH, MY GOD!!でした。

でも、このリハビリ散歩で、外出しなければ味わえない、季節の移ろいを肌で感じることができました。たった20分の散歩で大袈裟な、と言われるかもしれませんが、現在ほとんど引きこもり状態のわたしの実感です。

 

散歩中療法士さんから「わーっ、金木犀のいい香りがしますね!」とうれしそうに言われたのですが、病気のせいでわたしの嗅覚はほぼ失われていて、其の香りを味わうことができません。

残念至極でしたけど、一緒に歩いてくれる療法士さんが、私の代わりにこういう形で季節を感じてくれていることが、なんとなく嬉しく、金木犀が心の奥から香ってくるような気がしました。 

歩行のリハビリをうけながら、爽やかな風がかすめていく快い肌ざわり、木々のざわめき、季節の変化を肌で感じ、匂いを記憶でたどり、おしゃべりしたりしているうちに散歩も終わり。 こういう会話ができるのもリハビリ散歩ならではです。

 

2年前の秋は、夫がどんなときでも、いつも隣を歩いていました。

そう思っただけで、胸に熱いものがこみあげてきます。

でも、夫も嗅覚が鈍くなっていたので、金木犀の匂いはわからなかったかもしれません。

ということで夫も一緒に、秋日和散歩がわずかな時間ながら、楽しめたはず。久しぶりで、身心ともに快い充足感で満たされました。

リハビリは難行苦行? パート2 

リハビリは難行苦行といふ吾に「頑張りましょう」と事もなげなる

 

パーキンソンと病名が診断されて2ヶ月半。

 今は、なにもかもができなくなっていくような不安感も薄れ、薬と週二回のリハビリ、そして「大丈夫ですよ」「もう少しです」「がんばって」というような声かけを「杖」に、少しずつでも日常生活に戻ろうとしているところです。

 

 医師の判断では、入院も選択肢にあったとのことですが、近くに住んでいる娘と息子が、自分たちでなんとか24時間介護もやってみると申し出てくれ、自宅療養となりました。  

 地域医療の包括支援センターにも娘がいち早く連絡を取り、いろいろな支援が受けられる様手筈を整えてくれ、私は要介護1と認定されました。

 

 初めてクリニックを訪れた時には立っているのがやっとで、からだを傾けて、はいずるような歩き方をしていたそうです。

 医師から「その症状はいつから?」、「それいつのこと?」とたたみ込む様に からだの具合を問われ、すぐに答えられない自分がもどかしく、情けなかったことは覚えていますが、医師から受けたいろいろなアドバイスは、記憶の彼方。

 

 また真夜中、娘や息子を起こし「息苦しい、どうしよう もうだめ 救急車呼んで」と言ったり、ベッドから起きられないと助けを求めたり、と大変だったようですが、これもそんなこと言ったかも? ぐらいでよく思い出せない。

今は夜中に娘たちを起こすこともなく、トイレに行くのも一人で大丈夫ですが。 

 

 家族や医師をはじめ,、介護施設の人や療法士スタッフのみなさんから、その時の私の状態を聞くと、どうしても自分のことの様には思えない。 

 要するに、最もひどい時の状況はこんな感じで、私の中からすっぽり抜け落ちてしまったようなのです。

 「いいね忘れられて!」と驚きと共にあきれられていますが、医師によると、つらいことほど忘れてしまうことが、この病気は場合ままあるとのこと。いつか思いだすことがあるのかな。

 

 1ヶ月前には、どれにしようかと決めかねていたため、レンタル歩行器が家になんと、4台も待機。廊下には、伝い歩きのためのポールがとりつけられていました。

 でも今は、風呂場の一本のポールとベッドサイドの手摺りを除き、みな返却しました。

 

 そういえば、わずかな間ですが車椅子もあって、病院にいくときに使ったのですが、空を飛ぶみたいな軽快さで、なんと乗り心地の良かったことか!(もう一度乗ってみたいくらい)そんなことは、しっかり覚えていますが。 

 

 手助けがないと脱げなかった靴も、はじめてのリハビリで「できます、ひとりで」とはげまされ、なんとか人の手を借りずにがんばれたのは、療法士さんの「こともなげなる」その一言でした。 

 

 数多くの症例を目の当たりにしながら行う、さまざまな療法を試みた結果の、プロのならではの、「だいじょうぶ」「できますよ」だったのですね。

 皆さんにただ感謝です。

 そしてこれからも、リハビリどんなに難行苦行でも頑張ります。

 できることから、私なりに。

 

家族をはじめ、医師や療法士の声かけなどのはげましは、病んだ心身には、最高の治療薬。

よちよち歩きの幼児がみんなに見守られ、立って歩けるようになるのって、こんな感じなのかな。と思うこの頃です。