75歳 現役編集者の “徒然なる我儘に”

じゃこめてい出版の最年長編集者が手掛けた書籍の紹介と思い出の日々を綴る。人生の編集日記。

涙したのはどの「落葉」?

 

 もう何10年も前のことですが、絵を見ていて涙が溢れこまったことがありました。
 菱田春草の回顧展を見に行った時、展示されていたあの有名な「落葉」を眺めていたらふぁーっと涙が出てきたのです。


 静寂の中で音もなく佇む杉木立の絵を見ているうちに名状しがたい感情がわき起こってきて悲しいわけでももちろん口惜しいわけでもなく、涙がほほをつたわって、とまらなくなってしまった……。


 あの時の涙はなんだったのかー、今だに謎です。
 

 音楽をきいていて、テレビドラマや映画をみていて涙がでるということはこんな歳になっても(なったから?)ままあるのですが、絵を見て涙が出るという経験はあの時以来、残念ながら一度もありません。


 何か悲しいことを思い出したわけでもなく、思い出させる風景だったわけでもない。


 絶妙なバランスで静けさのなかで佇む杉木立、音もなく地に降りつもった落葉などが描かれている、それだけなのに、その空間表現に私の感情のどこかが揺さぶられ涙腺が反応したのでしょうか。
 
 この間書棚の整理をしていて別冊太陽の菱田春早を、「落葉」を見つけ、そのことをふと思い出しました。


 そしてじっと目を凝らして見たのですが、残念ながら涙腺はびくともしませんでした。

 

 ところで春早は36歳で夭逝しますが、「落葉」と言う画題の作品が五つもあるそうです。しかもいずれも1909年制作。別冊太陽にはその五つが見比べられるように紹介されていましたが、私の涙した絵はどれなのか。


 当然重要無形文化財に指定されている永青文庫所蔵の「落葉」だと思っていたら、私が観た昭和62年の春早展のカタログにその「落葉」の出品の記録はありません。流した涙の記憶だけは鮮烈に残っているのに、木立の中をさまよっているみたいにその記憶はおぼろで実にこころもとなくなるばかり…でした。。