海部宣男氏を悼む
冬木立科学者として生きにけり
と、詠まれたのは、すい臓癌でこの4月13日に亡くなられた国際的天文学者の海部宣男氏享年75歳です。
冒頭の俳句は2019年の作なので今年の1、2月ごろ作られた句だと思います。
「科学者として生きにけり」といいきられた、畳みかけるような口吻に胸をうたれました。
冬木立もやがて芽をふき新緑となる。自分の死を見据えつつ冬木立を見つめ続ける科学者のやさしくも厳しいまなざし。
こういう言葉をもたれ旅立たれたのだなと思うとこみ上げるものがあります。
じゃこめてい出版では「星めぐり歳時記」の著者として大変御世話になり、これからも引き続きお世話になりたいと、「星」と同様なスタンスで「月の歳時記」もお願いしたいとずーっと企画をあたためていたところだったのでとにかく残念でありショックでした。
たたき台のプロットも見ていだいていたのでもっとスムーズにこちらが動いていたら…、とそれができなかった諸事情と、自分の力不足が残念というより悔しくてなりません。
亡くなられる直前おくられてきた著者サイン本「77册から読む 科学と不確実な社会」(岩波書店)を、丁度読み始めたところでした。最近まで書評を担当されていた毎日新聞のご自身の書評欄をまとめた本の第2弾です。
この本の編集者が「星めぐり歳時記」の本について「宝箱のような本」と褒めてくださった手紙を見せていただいたことがありました。
「星めぐり歳時記」については、面白い本を紹介する書評サイト「HONZ」の創設者である成毛眞氏がその面白さについて下記にように紹介しています。
「それにしても不思議きわまりない本である。宇宙についても詩歌についても、個別にみるとページ数が少ないため、内容が薄い印象になる。しかし、1冊の本として見るとじつに魅力的なのだ。著者の2つの世界への思い入れがひしひしと伝わってくるからだ。」
一般読者のかたからも病院のベッドで御主人がいつも手許におかれていたので、亡くなられたときにお柩に一緒におさめた、と聞いたこともあります。
編集者である私自身にとってもとても思い入れ深い本で、手に取って見るたびに編集していたころのことをあれこれ思い出します。
興味のある方は2018年1月30日のそのことにふれているブログを御覧ください。
葬儀一切については家族のみで営んだとあったので、遠くからご冥福を祈るばかりでしたが、海部夫人が私の高校時代からの友人だったこともあり、他の友だちも誘って先週ご自宅に伺い手を合わせてきました。
窓を通して新緑の木々の間できらめく5月の光が降り注ぎ、たくさんの家族写真がしずかなときのながれの中でほほえみかわし、お互いにほっと身をゆだねあっている、そんな感じがするお家でした。
三年前初めてすい臓に癌がみつかり療養生活がスタートしたことを私が知ったのは、やはり目にまぶしい新緑の頃でした。その後難しい手術も成功、講演や執筆活動も再開され、日本だけでなく世界中を回られていることをきき及び、そのタフさには驚嘆するばかりで、完全復帰も夢ではないと思っていましたが…。
毎年恒例となっていた海部家の花見は、今年もでかけられ楽しまれたそうです。
一昨年の夏弊社でお願いした講演会では七夕まつりをテーマにした楽しいお話しをしていただきました。まだまだお元気で講演後の飲み会にも嫌な顔ひとつせずつきあっていただきました。
いつもと変わらぬ様子にホッとし、次回は何をテーマにお話しして貰おうかとたのしく思いをめぐらせたのですが…。
万一のことについては御本人が納得されるまで語り合い、海に散骨することになっているとのこと。ただし散骨は「二人そろったとき」にするということなのでその時まではご自宅にたいせつに置かれているとのこと。
こんな弔い方もあるということを知り、私も自分たちのこととして考えたいと思いました。
自宅で行われた親族だけのお別れ会の写真では、普段着姿の海部一家がなごやかににぎやかに会食されている様子がとても楽しそうで、ここに一人欠けている「宣男さん」はきっとご自分がいないことを一番くやしがっておられるにちがいない、と思いました。
ところで、今、心ゆくまで宇宙吟遊を楽しんでおられる海部さんから見た地球はどんな風にみえるのでしょうか。是非おききしたいものです。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。
「ボーッと生きてんじゃねーよ!」 チコちゃんに叱られる?
数年前、国策としてテレビがデジタル化されてテレビを買い換えざるを得なくなっ
たとき、テレビを運んできた業者からリモコンの使い方を説明されたのですが、その
説明が早すぎてよくわからず聞き返すと
「色々動かしていればそのうちにわかるようになりますよ」
とこともなげにいわれ、「次があるので」とさっさと帰られてしまいました。
取説もあることだし読めばいいのかも知れませんが、ナント不親切な!
「色々動かしているうち収集がつかなくなって見られなくなったらどうすればいいの
だ?」と怒りとないまぜになった不安と疑問が黒雲のようわいてきました。
これからは、というより後期高齢者はそんな思ってもみない突き放され方にも対応
していかなければならないのかと、心細くなり、マジにぼーぜんとした気持ちになり
ました。
その後娘達にいろいろ聞きながらなんとかそれでも見ていますが、今度は突然テレ
ビの映像が消えてしまい、画面の右半分にカラーの縦線が立ち並び、リモコンを操作
してもどうしても消えなというハプニングが勃発。メーカーに電話したとしてもおそ
らく廃棄処分で、新製品をすすめられるのが落ち、といわれそのままに。
この線はしばらく放っておくけば治ることがわかったので、あとはひやひやしながら寿命のつきるのをまつしかないという状態で今にいたっています。
まだ買って五年ぐらいしかたつていないというのに製造責任はどうなっている! と
わきあがるこの怒り、やくしさ。
この手の家電トラブルを思いおこすときりがありません。
十年以上使っているエアコン、掃除機、洗濯機など少々トラブルがあっても部品交
換してもらえば使えると思っていたら、「申し訳ございません。このタイプの商品の
部品はもう製造中止になっております」といわれ、新しい製品と交換するようようす
すめられます。というより、まだそんなものを使っているんですかといわんばかり。
そして一刻も早く新しい製品に買い換えることしか選択肢がないと思い知らされる。
冷蔵庫の仕切りのブラスティック棚が割れてしまい、メーカーに聞いてみたら「も
う仕切板はなくこの製品は製造しておりません」といわれ、仕切りのないまま使って
います。実に不便でなさけない。
FAXが故障したときはメーカーに電話するととりあえず送ってほしいといわれ送ると、やっぱり修理できないということでそのまま送り返されてきて、有料の粗大ゴミに。
以来我が家はFAXのやりとりはあきらめたのですが、ラッキーなことにいつのまにかFAXでなくともメールなどにスキャンしたデータを添付して送ればすむという時代になっているようです。
電化製品を長く使うことは悪いことなのか? もったいないは死語か。
疑問はつきないのですが、老の加速に反比例して体力知力は減速。世の中にいつの
まにかついていけなくなってしまったわたしは、あのチコちゃんに
「ボーッと生きてんじゃねーよ!」と
叱られる、のでしょうね、きっと。
涙したのはどの「落葉」?
もう何10年も前のことですが、絵を見ていて涙が溢れこまったことがありました。
菱田春草の回顧展を見に行った時、展示されていたあの有名な「落葉」を眺めていたらふぁーっと涙が出てきたのです。
静寂の中で音もなく佇む杉木立の絵を見ているうちに名状しがたい感情がわき起こってきて悲しいわけでももちろん口惜しいわけでもなく、涙がほほをつたわって、とまらなくなってしまった……。
あの時の涙はなんだったのかー、今だに謎です。
音楽をきいていて、テレビドラマや映画をみていて涙がでるということはこんな歳になっても(なったから?)ままあるのですが、絵を見て涙が出るという経験はあの時以来、残念ながら一度もありません。
何か悲しいことを思い出したわけでもなく、思い出させる風景だったわけでもない。
絶妙なバランスで静けさのなかで佇む杉木立、音もなく地に降りつもった落葉などが描かれている、それだけなのに、その空間表現に私の感情のどこかが揺さぶられ涙腺が反応したのでしょうか。
この間書棚の整理をしていて別冊太陽の菱田春早を、「落葉」を見つけ、そのことをふと思い出しました。
そしてじっと目を凝らして見たのですが、残念ながら涙腺はびくともしませんでした。
ところで春早は36歳で夭逝しますが、「落葉」と言う画題の作品が五つもあるそうです。しかもいずれも1909年制作。別冊太陽にはその五つが見比べられるように紹介されていましたが、私の涙した絵はどれなのか。
当然重要無形文化財に指定されている永青文庫所蔵の「落葉」だと思っていたら、私が観た昭和62年の春早展のカタログにその「落葉」の出品の記録はありません。流した涙の記憶だけは鮮烈に残っているのに、木立の中をさまよっているみたいにその記憶はおぼろで実にこころもとなくなるばかり…でした。。
うちのちりつもばあちゃん その3
引越しでヒョッコリ出て来たハーさんの手作り健康サプリ「弾丸」レシピと手書きの生け花ノート
引越でいろいろなものがひょっこりでてきましたが、うちのちりつもばあちゃんこと姑のハーさんがニンニクでつくった自家製ニンニク健康サプリ「弾丸」の巻紙状になったレシピもそうです。
仏壇の脇の戸棚から出てきました。料理本から写し取ったのか人にきいたのか、テレビで作り方を聞きながらメモったのかは不明ですが、とても丁寧に手順をおったレシピでその気になればだれにでもすぐに出来そうにかかれていました。
「効能 血圧 心臓 便秘 肌の美化 胃腸 風邪ひかぬ 疲労しない」などとあって、思わず作ってみようかなと心が動いたのですが、ニンニクが粉末状になるまでは5時間から6時間かかるとあり、速攻あきらめました。
ハーさんが子供達が風邪をひくとオブラートに包んだこの健康サプリ「弾丸」をもって「のむだわね」と追いかけまわしていたのを思い出します。
効き目があったかどうかは今以て不明ですが。
無理矢理飲まされた孫たちは「おばあちゃんがつばをつけてオブラートにつつんでいたのが気になってしかたがなかった」といまだにうらみがましくいっています。
写真は原稿用紙の裏にかかれたハーさんの手書きの「ニンニク卵黄」のレシピです。
最後は「弱火でこがさぬように愛情を込めて気長につくってください」と結ばれています。
ニンニクのにおいにみちたハーさんの「弾丸」作りの日を思い出しながら、心からお疲れさまというしかありません。
このレシピですが、ネットでも「ニンニク卵黄の作り方」としてほぼ同じものが沢山紹介されていました。自家製サプリの定番なのでしょうか。ということで「ハーさんの弾丸レシピ」はここで紹介するまでもなさそうなので、手書きのレシピの写真だ
け、参考までということでここに載せました。
ハーさんのレシピによれば「にんにく卵黄」の材料は以下だけ。
あとは作り手が「手間暇をかけるしかない」ということがわかりました。
??材料 にんにく ( 400 g)
水 3合
玉子の黄身 3ヶ
鍋 ゆきひら又は土鍋
これで約半年分の「弾丸」の出来あがり。実費はなんと400円位だそうです!
■手書きの生け花ノート
引越でもうひとつ出てきたのは生け花のノート。習っていた生け花はすべて図解してあり、出来上がりの絵もきちんと画かれていてびっくり。姑がまだ60になるかどうかのころ毎週草月流の先生のところにでかけていき、帰りには大きな花木を抱えて戻り、どんなに遅くなろうともその日のうちに家の床の間に活けなおしていました。
今だったらスマホで撮って保存もかんたんにでき、いつでも見られるでしょうがあのころは手描で記録していたのですね。そして絵を習ったわけでもないのに花の形がしっかり描かれていて、それがびっくりでした。
このノートをテキストとして生け花に挑戦する日がくることを願いつつ、眺めるばかりで花一輪飾るのも億劫な毎日です。
来客のあるとき、家に花が飾られていないのはお化粧しないまま自分を人目にさらすことと同じくらい恥ずかしいことだといって、花屋さんに走っていったハーさんを思い出すたび、恥じ入るほかありません。
引越疲れを癒してくれたゴールドベルク
猛暑の夏、やむない引っ越しさわぎで、後期高齢者としては寄る年波をいたいほど実感する毎日です。足が重い、腰が痛む、背が曲がる、すべての物が1割増ぐらい重く感じる……暑い、だるい、つらい、眠い、からだ全身がこどものようにダダをこねる……
そんな日が続くある夜、まだあけていない段ボールに囲まれたリビングでたまたま手許にあったグレン・グールドのゴールドベルクのCDをかけみると…。
まるで金のしずくが落ちてくるようなあの冒頭のピアノ、その音のしづくの一つ一つが胸にすーっと落ちてきました。
忘れてかけていたこの音! 音の連なり、つづれ織りのような美しい音の流れ。疲れきった体が、音の流れのままのまま誘われ、至福の時をたゆたっている。
心身とも潤い充たされ蘇生するような感じ。こんなに快い音空間があったことを忘れていた。音楽に癒されるということがこんなにもリアルに感じられるとは…。
疲れがほぐれていく感じ、あ、いいなこんな音空間。時間さえあればずっと浸っていたい。そんなひとときでした。
疲れをほぐすには、好きな音楽を聴くのが一番効果的だと云うが解ったので、次はシューベルト? それとも森進一!? とうれしく迷うわたしです。
「シモキタ」と「下北沢」とシューベルト
今は、本多劇場など演劇の街として、ライブハウス、古着屋さんなど、昭和の香りが残る独特な若者文化発祥の地としても有る名なシモキタこと下北沢。
今は全国区の街ですが昭和二十年代、自宅から歩いて15 分ぐらいの街だったということもあり、小学生から中学時代よく遊びにでかけました。そのころも映画館が三館もあって、洋画専門のオデオン座(ネットで検索したらオデヲン座となっていました)日本映画はグリーン座(ここで高峯秀子の『二十四の瞳』などを観ました)。
そして名前が思い出せないのですが、南口から八幡様へ向かう道から少し入ったところにも一軒あり、そこで『バクダットの盗賊』という映画を見た記憶があります。今はもうそれらの映画館は一軒もないようです。
お風呂屋が一軒、あとはこまごまとしたお店が迷路のような小路にたちならびアットランダムな形で発展していった街で繁華街は、20分ぐらいで全部回ることができたような気がします。
古レコード屋さんがあり当時はSP盤の時代、伝説のテノール歌手カルーソの「女心の歌」がはいっている片面だけのレコードを父が買ってとても大切にしてたのを思い出します。
そして相撲好きの父が場所が始まるとテレビをみるために足げく通ったお寿司屋さんがあり、作家の森茉莉さんいきつけの風月堂と言う名の珈琲屋さんもあり、そのアンティークなたたずまいが子供心にもとてもおしゃれな感じがしました。
確か先祖が荻生徂徠というその名も「荻生書店」という古本屋さんもあったような。
子どもはお呼びでなかったので、記憶もおぼろですが。
「どんりゅうさん」とよばれていたお寺もありました。でも最近、そばにすんでいた人からそれはドンリユウさんではなく、道了尊(ドウリョウソン)のことで、自分たちは「ドウリョウさん」とよんでいたと教えてもらいました。箱根足柄山にある烏天狗を祀る大雄山最乗寺の末寺だそうです。
教えてくれた方は認知症の権威者で脳神経外科の先生です。私の記憶違いであることは間違いないのですが、記憶の中に「呑竜」(どんりゅう)と漢字まではっきり銘記されていて、拭いさることができません。困ったものです。
♪日本語だから心に届くシューベルト
昨年9月27日、その下北沢の一角にあるライブハウス「音倉」で〈じゃこめてい出版presents「日本の秋の歌とシューベルトを歌う」〉という コンサートを開きました。
テノール歌手の畑儀文さんとビアノ田中悠一郎さんを迎え、「里の秋」や「紅葉」「庭の千草」など秋を歌った名曲の数々と実吉晴夫現代語訳の日本語で歌うシューベルト、「のばら」「子守歌」「菩提樹」などを歌っていただきました。
シューベルトの歌は畑さんが歌う実吉邦詩による「冬の旅」全曲と有名名曲を集めた「ミューズの子」の2枚がCDになって、じゃこめてい出版より発売されています。
ネットでも数曲試聴できます。
「冬の旅」を日本語で聴くと、歌詞の意味がそのままメロディとともに「失恋の痛みを抱え冬の旅をつづける若者の歌」とわかり、ひとつひとつの歌にこめられた思いが直に心に届き、感動が倍加します。
「冬の旅」の15曲目「からす」を實吉晴夫邦詩で聴いてみてください。冒頭のピアノによるいかにもシューベルトらしいシンプルで美しく哀切なメロディー。そのピアノ導かれるように日本語の歌がはじまると、その一語一語がぐっと胸に迫るのを感じます。まるで日本の歌曲のように。
「からす」
原詩 ウィルヘルム・ミュラー 曲フランツ・シューベルト
邦詩 實吉晴夫
カラスが一羽ついて離れない
今日も一日 頭の上
おい 何してる 離れないの
そうか 死んだなら 俺を食うか
長くはないさ すぐに餌食だ
カラスよ見せろ まことの愛を
最後に見せろ 変わらぬ愛を
「冬の旅」からもう一曲。有名な「菩提樹」も聴いてみてください。
シューベルトの歌を全曲原語で挑戦し何年もかけて歌ったという程シューベルトをこよなく愛する畑さんですが、「原語の壁は厚く、実吉さんの邦詩で歌った時はじめて聴く人の心にじかに届いたという手応えを感じた」そうです。
その畑さんが歌う実吉邦詩の「冬の旅」をラジオで聴いたと言う方からこんなに素晴らしい日本語のシューベルトの歌を初めて聴いた、是非日本語の楽譜が欲しいとお電話をいだいたのは去年のことです。
お知り合いの大津康平さんというバリトン歌手の方が實吉邦詩の「冬の旅」に大変興味を示され、いつかリサイタルで歌ってみたいとおっしゃっているとのこと。
下北沢のライブハウスの畑さんのコンサートにも来てくださり、實吉邦詩で歌うシューベルトも聴いていただきました。
きっと畑さんとは又違った「冬の旅」を聴かせていただけるのではと、期待を膨らませています。
★そしてまた下北沢
このコンサートの前、ライブハウスの下見を兼ねて久しぶりに下北沢で降りたら駅は改装工事中で、迷路がさらに迷路になって、小田急線は地下にあり、何処をどう出れば何処に出るのかさっぱりかわからなくなっていました。駅には昔の面影はほぼなし。小田急線と井の頭線がクロスするガードがあったので、昔をしのぶ縁(よすが)が少しでも残っていてほっとしましたが。駅にくっつくようにあった戦前からあった何でもあってなんでも安い「駅前食品市場」(と呼ぶということはネットで調べて初めて知ったのですが)はなくなっていました。
ここに中学の同級生がいて、彼女が時々店番をしているのを見かけました。
中学の同級生の何人かは下北沢商店街のお店の子ども達で、靴屋さん、床屋さん、肉屋さんお菓子屋さん……いまでもまざまざと顔が浮かんできます。あの顔、この顔、今もお店は残っているのかな。みんなもう後期高齢者なのだなあ、としばし感慨にふけったのでした。
駅前の掲示板に、工事中のため期間限定で災害時の避難場所のお知らせの紙が張ってあり、読んでみると私の通っていた中学校が避難所に指定されていました。学区が同じだったということなので当然といえば当然ですが。
時代は変わっても学校は変わらず、というわけにはいかないでしょうが、懐かしい中学時代にしばし思いを馳せました。
見上げてごらん夜の星を その2
見上げてごらん夜の星を 其の2
この本は美容院から生まれました。
というのは、いきつけの美容院に置いてあった分厚い婦人雑誌をみるともなくめくっ
ていたときのこと。思わず「これはいったい何?」と、ページをめくる手がとまりました。「星とことば」というようなタイトルの口絵の写真が「クリスマスのオーナメントも顔負け」と本書でも紹介されている、息をのむように美しい天体の画像。
これが「星?」その時はじめて観たこの一角獣座で光る星の天体画像と紹介されているその写真にすっかり魅せられてしまったのです。
その写真にそえられた天文詩歌にまつわるエッセイもとてもよくて、美容院の人にバックナンバーはありますか? と聞いてしまった程です。その執筆者が、著名な天文学者として知られる海部宣男氏でした。元国立天文台長であり、ハワイのすばる望遠鏡
創設者で初代代表であり、また国際天文連合学会会長として世界の天文学会を牽引されてきた天文学者です。素人にもわかる興味深い星の本をたくさん出されていて、私も何冊か読ませてもらっていました。
「こんなに美しい写真がいっぱい載った星の本をつくりたい」
そんな思いに突き動かされ、早速コンタクトをとり、本にすることを快諾してもらえたのです。
そして、一年あまり後の七夕の日にめでたく「星めぐり歳時記」というタイトルで書店に並べることが出来ました。しかもその発売を記念して歌とピアノと海部先生のトークを交えた「星のコンサート」も開催という贅沢なおまけつきで。
ところで美しい星の画像ですが、残念ながら夜空を見上げても肉眼でカラフルな画像が観ることができるわけではありません。人間の眼よりはるかに感度のよい「電子の目」で観て、コンピューターで「色づけ」するのだそうです。
興味を持たれた方は、詳細は本書P90を御覧ください。
★夜の地球
この画像は、人工衛星から見た夜の地球(合成)。同書のP4~P5に紹介されています。
小さな日本列島が人工の光によって一際輝いてみえます。画像でみるかぎり夜の地球は金色の糸で刺繍したような世界地図を浮かび上がらせ、とても美しいのですが、この光は「地上から見上げると夜空を明るく染め上げる光でもある」と著者海部宣男
氏はのべています。
つまり人間の生活が人工の光によって明るくなると、星空はその光によって見えにくくなってしまうというわけです。
ということで、もっとよく星空を観たいという人々の願いに応えいろいろな試みが日本各地で始まっています。
石垣島では2002年から毎年旧暦七夕の夜は全島灯りを消して、星空を満喫するという試みを恒例化、夏の風物詩として全国から観光客が訪れているとのことです。この試みに対しても海部氏は積極的に参加され、応援されているとうかがっています。
★美しい星空をまもるために、全国初鳥取で「星空保全条例」を可決したそうです。
星の見えやすい県として環境省が行う星の見えやすさの調査で何度も全国1位になっている鳥取県は、知るぞ知る日本の美しい星が見られる自称「星取県」。 たしかに鳥取砂丘で見上げる星空は想像するだけでメルヘン! 素敵そう。
その美しい星空をまもるために、照明の使い方などを規制する「星空保全条例」
が12月21日の鳥取県議会で可決。星空を守る目的に特化して条例は、全国でも初めてだそうです。
サーチライトなど照明の使い方などを規制し、違反した場合罰金もあり、とくに美しい星空が見える地域では街灯の灯りが外にもれないような規制もあるとか。
星空を守る目的に特化して都道府県レベルで規制を行う条例は全国でも初めてとのこと。条例は今年の4月1日に施行されるとのこと。
鳥取県の平井知事は「全国初の条例になるが、来年すぐに特命チームをつくるなどして、しっかり県民に周知して運用していきたい」と話しているそうですが、どんな美しい星空が見られるのか楽しみです。
宇宙吟遊 光とことば
「星めぐり歳時記」
海部宣男 著(本体1,500円)
#星めぐり歳時記