八十をすぎてからテレビのつきあい方が随分変わりました。
今までは気になるドラマなど前もってチェックし、見損なってもいいようにビデオに撮ったり、TVERなどネット配信でしっかり見ていましたが、最近はそれも面倒になって、「連続ドラマ」は途中で「不連続ドラマ」となり、いつのまにか見なくなってしまっている。
NHKの朝ドラ「虎と翼」は別格でしたが、今の「おむすび」は見たりみなかったりで筋も追えない状態です。
ドラマといえば、これもNHKドラマですが「団地のふたり」は面白い!
小泉今日子と小林聡美の演じる都心からなれた団地に生まれ育ったおさななじみの「ふたり」を主人公にした物語です。
五十を過ぎて諸事情により団地に戻った二人の日常生活をユーモラスに描いたドラマで、ふたりの掛け合いがなんとも楽しく、いつまでも聞いていたい見ていたい感じになっています。
周囲の環境と団地のたたずまいが近くの団地とそっくりなのでもしかしたら、と見ていたのですが、残念ながら違いました。そう思った方も多かったのでは?
それは。戦後の復興を達成した昭和の原風景といってもいいのかもしれません。
物語はもう終盤。“だらだら”と続いてほしかったのに残念です。
結構見ていた歌番組も最近はほとんどスルー。
出演歌手によっては楽しみにしていたのですが、新しい歌は知らないし、かといって耳になじんだ名曲だったとしても若い歌手が歌うのはどうもいただけない感がある。
そんなこんなでだんだん見なくなってしまいました。
サスペンスものも全く見なくなりました。
あんなに好きだった「相棒」もみません。
若い頃事件ものドラマをみていると、姑からよくいわれました。
「あんたはそげにこわいもん よー見んさるねえ! 」
今はそのまま自分に言ってやりたいぐらいです。
かといってラブストーリーものは筋を追うのもつかれる。これもスルー。
バラエティー番組はもともと見なかったので今更見たいと思わないのでパス。
そんな中で比較的見ることが多くなってきたのはドキュメンタリーもの。
偶然チャンネルをまわして、面白いのでそのまま最後まで見てしまったという感じの見方ですが。
駅ピアノ、というのもありますね。駅を行き交う人がふと足を止めて聞き入るのと同じ角度で見入り、聞き入ってしまいます。
でも弾き手がうま過ぎてもちょっとシラケる。
ちょっとつっかえたりするとほっとする。
な〜んて、そんな聴きかたって素直じゃないですね。反省。
ニュース番組はとりあえず見ますが、さらに深堀した番組はよほどのことがないかぎり見ない。なんとなく覚悟がいるので。
これらはすべてはPD(パーキンソン病)の為せるわざーとしてすべての意欲の低下を病気になすりつけてすませるのは何かしら卑怯な気もしないではない。ヤヤコシイ私です。
それでも新聞は見出しだけでも目で追い、気になった記事をゆつくり読むように心がけてはいますが…。
なかなかこころがけばかりで、読まない日々が重なっていくばかり。
しかもあの何重にも畳まれた新聞を開くことすら億劫になり。
私にとって開くのも畳むのも結構難儀な仕事となってしまいました。
昔混んだ朝の通勤ラッシュの電車の中で、畳まれた新聞を、読みたい面だけを器用に出して読んでいたサラリーマン(だけではありませんが)のみなさん、すごい! その技習得しておけばよかった。
その新聞もいまやネット情報の速さ、量、広がり方には敵わなくなりつつあります。
“真実”を報道し追求するはずのメディアとして最近新聞やテレビの情報は何か心許なく、若者のテレビ離れ新聞離れと相まって発行部数も減っているとのこと。
われわれ後期高齢者が生活情報源として頼る新聞はどうなっていくのかと。
購読者、テレビ視聴者の行く末が心配。将来どうなるのか?
“われわれは見捨てられてしまう存在なのか?” みたいな。自分などが心配したってどうなるものでもないけれど。
新聞といえば、毎日日記をつけ(それがメモ程度の箇条書きであっても)、新聞もしっかり読む(ときどきは飛ばし読み、ざっとまとめ読みすることも)という友だち歴65年、要するに高校時代からの友人がいます。
自身が必要と判断すれば今でもデモにも参加、小中高校のクラス会なども面倒がらず顔を出し、旧交を温め、友だち関係をとても大切にしてくれるーーそんな友人です。
しかも、温かみのあるふくよかなアルトのハスキーボイス。
シャンソンなどを歌うと、プロ歌手には出せない人間味あふれるその歌声に思わず聴き入ってしまいます。私は彼女の歌のファンでもあります。
そしてなにより嬉しいことは年齢を重ねるごとに長電話になる私のおしゃべりにも嫌な顔ひとつせず(顔は見えないけれど)つきあってくれること。
“もつべきものは友”を実感し、やがて八十路坂を二年越えするわたしです。
活動意欲が減退しボッと生きている自分の怠惰な生き方を反省する時、電話してみようかなと真っ先に思い浮かぶのは彼女。
せめて存続が危ぶまれている新聞がこの世から無くなる前に、彼女を見習おうと思いますが、なかなか。言うは“易し”の毎日です。