だあれもいない一本道
浮かび来るふるさとはいつも夕焼け だあれもいない一本道が続く
戦争(とは第二次世界大戦のこと。歳がわかってしまいますね)中疎開していた母の実家の村から街へと続く其の一本道は、1日2回土ぼこりを立ててバスが通るだけ。
母は終戦の次の年にその地で亡くなりました。
その時私は3歳。二つ違いの兄と二人心臓の発作で倒れた母の急を知らせるため祖父母の家に続く夕暮れ時のその一本道を急ぎました。
其の時どんな気持ちだったのか思い出せないのですが、なぜか裁縫用の物差を片手に握りしめていたことだけが記憶にまざまざと残っています。
葬式の日は初夏の日差しが眩しい日で、私は一人濡れ縁で足をぶらぶらさせながら、腹にまつわるように響く読経を聞き、庭をよぎるアリの行列を目で追っていました。
父は東京に戻ったその日に、「キトク」と打たれ電報を受け取り、そのまま母のもとにとんぼ返りしたそうです。その後日記に「万事休す」と記すことになるのですが、母が28歳の若さで逝ってしまうとは、父をはじめ誰もが思わなかったことでしょう。
私が人生で初めて出会った死はこのような唐突であっけない母の死でした。
そのことをどう受けとめればいいのかわからないまま、80年を生きて思うのは「どんな死でも唐突であっけない」ということです。
姑は施設で介護を受けながら99歳で亡くなりましたがやはり、「唐突であっけない死」に思えました。
近親者の死は特にあっけない。さっきまで生活を供にし目の前にいたはずの人がいなくなるということはどうしても解せ無いことです。唐突に幕が降りてしまう、特にそう思うのかもしれません。
父、二人の兄、夫の母を亡くし、そして去年の春は、思っても見なかった夫の突然の死。
夫の死の少し前無二の親友の訃報に接し夫と共にびっくりしたばかりだったので、その唐突感は衝撃なものでした。
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この一年出会ったあまりに辛い死と真向かい、言葉を失っていました。そして言葉に変換する作業がかくもしんどいものか思い知らされ続けた一年でした。
いまだに気分も体調も引きこもり状態ではありますが、この場を借りて少しずつ作ってきた歌と共に様々なおもいを綴ってみたくなりました。
読まれる方には心苦しいお願いになるかもしれませんが、またお付き合いください。